2013年5月5日日曜日

「ジャーナリストはみんなハエみたいなもんだ」



アフリカで取材していたときのこと。ある国の代表チームの広報担当と押し問答になったことがある。

取材をめぐるやり取りは、たいていの場合、こっちが「許可しろ」といい、向こうが「駄目だ」と突っぱねる。あのときもそうだった。自分はこう主張した。

「大丈夫だ。日本人だから規則は守る。信用しろ」

返事はこう。

「どの国の人だろうと駄目だ。ジャーナリストはみんなハエみたいなもんだろう」

この答えに妙に納得し、「確かにそうだな」と笑ったのを覚えている。

自分は何者かということを考えるとき、「ジャーナリスト」の占める割合は大きい。いつも締め切りを考え、「何か」の事態に備えてカメラを持ち歩く。そして、常に面白いネタはないかとかぎまわっている。本能的に、現場では一歩でも取材対象に近づこうとする。おそらく世界中のジャーナリストが同じ習性を持ちながら日々を過ごしているはずだ。

だからどの国だろうと、ジャーナリストが集まるところはなんとなく自分の居場所のような気がするし、同じ連中とは話が合う。日本人の銀行員相手よりも、外国人のジャーナリストとのほうが間違いなく話は弾むし、仲間意識も芽生える。

これはほかの職業でもきっと同じだ。香川真司のアイデンティティは何よりもサッカー選手であることだし、村上春樹にあなたは何者かと尋ねたら「小説家だ」と答えるだろう。

だから、みんな軽々と国境を超える。スポーツ選手は五輪やワールドカップなど自分が輝ける場を求めて国籍を変えることをためらわない。なぜなら、それは自分が何国人であるかよりも大事なことだからだ。

たとえ国籍を変えなくても、活躍の場を探して住む国を変えるのは当たり前になっている。それは芸術家でもそうだし、カルロス・ゴーンのようなビジネスマンもそうだ。

ウサイン・ボルトが尊敬を集めるのは、彼がジャマイカ人だからではなく、100メートルを世界で一番速く走れるからだ。小沢征爾が認められているのは、日本人だからではなく、一流の指揮者だから。カルロス・ゴーンは経営者として認められているのであって、彼の国籍にこだわる人はいない(ちなみに、ブラジルとフランスとレバノンの国籍を持っている)。

みんな自らの努力と才能をもってアイデンティティを築いており、だからほかの人に対しても、同じように努力や才能に対して敬意を表することができる。

前置きが長くなった。

「朝鮮人を殺せ!」などとヘイトスピーチを行っているのは、かわいそうな人たちなのだと思う。なぜなら、彼らが拠って立つところは「日本人である」ところにしかないから。

「日本人」でいることには、何一つ才能も努力もいらない。ただ生まれるだけでその地位がもらえるのだ。才能がなかったり、努力が足りなかったりして自らの拠るすべがない人は、他人を貶めることでその鬱憤を晴らすしかない。そして、それは「自分は日本人だ」という、何の努力も才能もなしに手に入るもので支えられている。「俺たちは日本人だが、あいつらは違う」。かわいそうな人たちにとっては、安全で居心地のいい場所なのだ。

国家主義者も似ている。個人としてのアイデンティティが築けない人は、だれもが幻想を抱くことができる「国家」にすがらざるを得ない。「自分は」ではなく「日本は」のほうが大事になってしまう。

グローバル化が進み、国境というハードルはどんどん低くなっている。資本や企業はあっという間に国境を飛び越えた。

人の動きも激しさを増している。EU内は人の移動が自由だ。父がドイツ人、母がスイス人で、イタリアに生まれた、というような人は数え切れないほどいるだろう。

自分の周りにもたくさんいる。ペルー人とカナダ人の夫婦、ポーランド人とブラジル人のカップル。友人の一人は父が日本人で母がイタリア人、本人はブラジル人だ。グローバル化の進行にともなって今後は日本を出て行く人たちも増えるだろう。

ヘイトスピーチを繰り返している人たちに聞きたい。

「あなたは何者?」

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